2005年05月15日

短編小説「未練」 その1 片岡 永


    未  練                             
           片岡 永

ホースの先からほとばしり出た水がタイヤのホイールに当たり、武男の顔にはねかかった。気持ちのよい冷たさだった。武男は首に掛けていたタオルで、額の汗と頬の飛沫を拭った。バケツに溶いた洗剤にブラシを突っ込み、ホイールに付いた泥を丁寧に擦っていった。
 ひとわたり外回りを洗っい終えた武男は濡れた軍手を剥ぎ取り、首のタオルで手を拭いた。Gパンのポケットから煙草を取り出し、しごいて折れを直した。八年間で十三万キロ走ったカローラだ。キズも多いし、水あかでところどころくずんではいるが、こうして洗ってやるとまだまだ初夏の日差しに眩しくは見える。武男は車の周りをひと回りしてみた。
バンパーの両端にはかすり傷濃く刻まれているし、フロントガラスもよく見ると細かいワイパーの線がキズになって残っている。運転席のドアを開けて座ってみた。取り付けていた小物入れや灰皿や芳香剤はみな外してしまった。タオルでハンドルを丁寧に拭き取ってやりながら、小さく声に出して、ありがとうと言った。
 やつと金のメドがついて、新しい車をかうことになった。4WDのレクレーショナルビークルだ。納車までのこの一ヶ月がどんなに長かったことか。このカローラを下取りに出す前の日にはきれいに洗車しておいてやろうと、契約の時に決めた。ディラーのセールスマンはこのカローラを見て、「このエンジンで十三万キロ走ったらちょっとねえ。それに、ミッションでしょ。今時ミッションに乗る人、いませんからね」
 武男はぶ然とした表情で尋ねた。
「それで、新車を買う条件での下取り価格はなんぼになるねん」
「ええとこ三万ですね」
武男は車内に掃除機をかけながら
「まだまだよう走るのになぁ」
思い出したら笑いになった。助手席のシートやシートの下にも丁寧に掃除機をかけた。貴久代を乗せたのもこの車だったし初めてキスをしたのもこの車の、このシートだった。
 いつものようにレストランで食事をし、コーヒーを飲んでいた時だった。武男の話には答えず、突然、
「ねえ、もうこうやって会わないようにしよう」
 と貴久代が言った。武男はカップを右手に持ったまま彼女の顔を見つめた。どうしてと聞けないほど、それは突然の提案だった。
今がどういう状況であるのかを頭の中で整理しようとしていた。「もう少し距離を置いて接していきたいの」
 彼女は頭のいい女だった。けっして何の考えも無しにこんなことを言い出すはずは無かった。きっと何か、大きな変化が彼女の中にあったはずだ。それを探り出そうとして、ここ数日間の二人の行動を思い出してみた。
貴久代は煙草に火をつけて細くふきだしながら、
「この前、あなたに本をもらったでしょう。これおもしろいからって」
「周五郎?」
 貴久代はうなずいた。
「日本婦道記。あれ、ほんとうに面白かった。私、年寄り臭い名前でしょう。小さいときからずっと悩んでいたのよ。こんな名前付けた親を恨んだわ。でも周五郎読んで、そんな悩みもなくなった。もっと自立して生きていかなきゃあ、こんな小さなことで悩んでちゃ駄目だって、寝覚めたのよ、喜んでくれるでしょう」
 嬉しそうに自分のポニーテイルの髪をつかんで、ゴムを絞り上げた。
 さあやるぞ、と言わんばかりの彼女の気合いに負けた形で、武男は彼女の提案を飲んだ。
「別れようって言うんじゃないのよ。また寂しくなったら私のほうから電話するから、その時は会ってね」
 実質的な別れであるのに、嬉しそうにそう言われ、ついうなずいてしまった。
 その最後のキスをしたのも、このシートだった。
 掃除機の音に混じって呼ばれたような気がした。尻から車を出て掃除機のスイッチを切ると、縁側にちょこんと座って母の登美子が笑っていた。
「呼んだか?」
「その自動車売るやないのんか」
「ああ、明日下取りに出すんや。今度のは大きいさかい、お母ちゃんもゆっくり座れるで」
 登美子は両手に持った湯飲みをすすり、
「ゆっくり座れるのはええけど、おまえ、明日売る車をなんでそないきれいに掃除するんや」
 武男はタオルで首を拭いながら縁側に近づき、
「ほら、この車には世話になったやろ、せめてもの恩返しやがな。きれいにしてやっといたら、スクラップにするのんやめて、もう一回売ろうかゆう気になってくれるかもしれんやんか」
 登美子は隣に腰を掛けた息子を見上げ、
「おまえは昔からそうやなぁ。ほんま、性格ちゅうもんは変わらんもんやなあ」
 武男は煙草を点けて母に向き、
「何がやねんな」
 と尋ねた。登美子はまたゆっくりと茶をすすり、
「三つ子の魂ゆうけど、ほんまやなあ」
 と独り言を言った。

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(未練 その2につづく)

By myfont @ 10:50 AM | 未練 | コメント (0) | トラックバック (0)

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