2005年05月18日
短編小説「未練」 その4(最終回) 片岡 永
未 練
片岡 永
「おとうちゃんなあ、あれから一回だけ来たことがあったんやで」
登美子は手を伸ばし、煙草を庭石でもみ消しながらそう言った。「あんたが中学生になった頃やった。夜中に、ほんまに突然訪ねてきたんや。今でもよう覚えてる。こんな時間に誰やろって思って出てみたら、擦り硝子の向こうの人影が、わしやって答えた。声聞いてすぐあの人やって分かったけど、わざと、どちらはんでっかってゆうてやった。そしたらあの人、硝子戸をがたがたさせて、なにゆうてんねん、わしやないかって声荒げた。酔っぱらってたんやなぁ」
「夜中に近所迷惑ですさかいおやめ下さい。」
完治はあのも硝子戸をがたがたいわせ、
「わしやど、わしが帰ってきたんやど、開けてくれんかい」
「ここは女と子供だけの家庭です。夜中に物騒ですさかい開けられません」
「あほか、わしや、完治や。完治がかえってきたんや」
擦り硝子に完治の大きな手のひらが写っていた。
「完治なんて人はこの家にはいてません」
「なに、登美子。おまえ分かってるくせしてゆうてるんやな。なんでや、訳を聞かせ。とにかくここを開けんかえ」
「ええかげんにしてください。警察呼びますよ」
一瞬外が静かになった。硝子戸に写っていた手のひらが滑るように落ちていった。
「なんでや。なんでそこまでいわれなあかんのや」
登美子は羽織っていた丹前で顔を押さえた。震えていたのは寒さのせいばかりではなかった。外はさぞ寒かろうにと、三和土に降り、錠に手を掛けたとき、
「そうか、誰かおるんやな。そこに誰かおるんやろ。そやさかい開けられへんのやろ。おまえっちゅう女はなんじゃ。せっかくわしが帰ってきたちゅうのに、他の男連れこんどるんか。よっしゃわかった、もうええ、こんな家、二度と帰ってきたるか」
風の中を去っていく完治の足音はすぐに聞こえなくなった。登美子はへなへなと三和土にしゃがみこんでしまった。あんたぁ、と声が漏れた。
「なんで開けんへんかったんや」
登美子は遠い目つきで庭の向こうの生け垣のあたりに目をやりながら、
「そやなあ、素直に開けてたら、うちらの生活ももうちょっとましになってたかもしれんのにな」
「生活のことなんかどうでもええけど、嫌いやった訳やないやろ?喧嘩して別れた訳やないやろ?何年かぶりに帰ってきた旦那に会いたあなかったんか」
武男は登美子の四十の時の子だ。三十六の年に完治という人に出会ったときから、一生添い遂げられないと分かっていた恋だった。しかし、せめて将来自分の生きていく力になるものが欲しいと、今後の生活や年齢を考えずに子供を望んだ。別れたのではない。十数年お借りしていたものを返しただけだ。生活もこれからの人生も捨て、断腸の思いで返したものをまた借りたら、もっともっと返したくなくなってしまう。それが何より辛く、恐かった。
「おかあちゃんは、去っていくものに未練は残さへん性格やねん。あんたと違ってなあ。去っていくものに未練がましゅうしてるより、新しいもん探して大事にしたほうがええやないか」
「新しい人がおったんか」
「まだ、おらん」
「まだって何やねん」
「まだ今でも探してるんやないか」
「あほくさ」
登美子は洗いたてのカローラに目をやり、
「そやけど、洗ってやったらやっぱりきれいになったなあ。期限よう送り出してやりや」
武男を見上げ、まあ、さあ、と膝を叩いて立上がった。

終わり

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