2005年06月29日
師匠からの手紙(西日本新聞掲載)
師匠からの手紙(西日本新聞掲載)
片岡 永
会社員を辞し、新規に就農してから3年目。年賀状代わりに送る農園通信を昨年末もお世話になった方々に送った。文学の師匠と仰ぐ、古希を過ぎた同人誌の先輩から返事をいただいた。
師は「21世紀は原点回帰の世紀、人類は自然に対しあまりにも傲慢無礼であった。人間は紛れもなく自然の一部であることを思い知るべきだ」と現状を憂い、「同窓会で、昭和20年代中学生だった頃の弁当が話題になった。あのころの弁当は何故あんなに旨かったのだろう。久々の銀飯の真ん中に梅干しが一つ、目刺し三匹に沢庵が二切れ。飽食の世にあって、あれ以来あんなに旨い弁当を食べたことがない。人間は極みにきて初めて、何が本物で何が偽物であるのかが判るのかもしれない」と書かれてあった。
会社員時代より長時間働いても収入のついてこない現実。いまだ挫折せぬまでも、掌を見て溜め息の出る日々。しかし自分がやろうとしている営為の意味を再考し、方向は間違ってはいないのだと、勇気と希望を与えられた正月であった。
竹熊宣孝氏講演会
竹熊宣孝氏講演会
片岡 永
居住する福間町の公民館まつりで、菊池養生園名誉園長・竹熊宣孝氏の講演会があった。古希を過ぎたと言われる氏だが、笑わせながら聴衆を引きつけ、飽きさせぬ一時間半であった。
氏は「お金と命とどちらが大切か」と説き、「医食農」が命を育む仕事であると話された。しかし現状はそれらが経済の方向に向かっていると憂慮もされた。
私は日本の食糧自給率の低さに驚き、安全な食物を地域の人々に供給したいとの思いから会社員を辞し、昨春この地に就農した。理解ある地主と農家の産直場「ふれあい広場」という良き販売先にも恵まれた。
若いときからの夢であった農業をしようかどうか迷っていた頃、決断の背中を押してくれたのはネットワーク地球村代表・高木善之氏の講演であった。それから高木氏の講演会に何度か行き、講演テープも繰り返し聞いた。そうして迷いを晴らすことができた。思い返せばそれも福間公民館での講演がきっかけであったのだ。
この町には良き文化がある。郷田氏の率いた宮崎県綾町のように、全国から憧れをもたれる町になってもらいたいものだ。
有り難きかな、産直場
有り難きかな、産直場
片岡 永

僕が福間町で就農して、本当に助かったと思ったのは、この町にある農家の産直場「ふれあい広場」があったから。ここは登録さえすれば簡単に農産物を出品する事ができる。条件は福間町在住ということだけだ。農産物であれば何でもいいし、値段は自分で決められる。朝7時半までに出荷し、5時の閉店後に余り物を引き取りに行く。手数料は1割。月末に締め、翌月10日にJAの口座に振り込まれるという仕組みだ。
何が助かったかと言うと、ここでは量もサイズも関係なく出品できるという点だ。アスパラは通常、26センチに切り揃えて出荷するが、それに満たないものは、共同選果の場合出荷対象外になる。曲がっていたり、穂先の開いたもの、細すぎるものも同様だ。しかし「ふれあい」なら何でも出品できる。選ぶのは消費者だから、その品物に合った価格なら買ってもらえる。
僕の場合、良品は100g150円で出す。曲がりや穂開きは80円を付ける。細いものは16センチで切りミニアスパラとして出す。こういう融通が利く。収穫が少なく、たとえ1束しかできなくても出品はできる。「ふれあい」があったお陰で、この1年半、何とか換金できたようなものだ。直接消費者に売るという点も面白い。完売すれば喜び、残れば何故かと考える毎日だ。
この店は年間5億円以上売る。出品する農家は300人を越える。5億円と言えばちょっとしたスーパー並みだ。それを一部の加工品や肉類はあるもののほとんどを農産物だけで売り上げるのである。平日で1000人、土日は1500人の来客がある。ここで年間1000万円を売る農家は、昨年8人いた。いわばこの店だけで農家は食っていけるほどの販売力を持っている。
個人名を付けて売るから、指名買いも多い。もっとも大切なことはファン作りだと考えている。「永香自然農園」のシールを添付し、ファン作りに努めている。そのためには何としても安全で美味しく、値頃感のある商品を、多品目出品する事だ。
将来新規に就農しようと考えている人は、こういう産直場のある町で就農することが販路確保の面で大変重要になるから、参考にしていただきたい。
百姓は環境保全者か?
百姓は環境保全者か?
片岡 永
農業の多面的機能を評価しようと言う動きがあり、これはこれで良いことだと思う。食糧自給を支えるだけではない農業の役割。農業者にとっては自分の日々の生活そのものを評価されている気持ちになる。
では百姓はどれほど環境保全に寄与しているかと言うと、僕が実際に畑に出て見ている限り、大いなる疑問がある。畑に出てみて初めて知ったことだ。
僕の畑の隣は、冬に大根、夏にキャベツを広大な面積で作る専業農家である。ご主人はもう70を超えているだろうか。奥さんと二人で、休日にはサラリーマンの息子も手伝っている。彼らはやたらとゴミを捨てる。それが風に吹かれて近隣の畑へと流れてくる。農薬や肥料の袋、お菓子の袋、煙草の吸い殻やパッケージ・・・風で飛んでいけば消えて無くなるとでも思っているかのようだ。
大根の葉やキャベツの葉などの残さは隣接している畦に捨てる。広大な自分の畑があるのに、そこには鋤き込まず、隣地との境に捨てるから、それが腐って悪臭を放つ。自分の畑ではなく、わざわざ他人の畑に向かって小便をする。
農薬は驚くほど散布する。キャベツに使う殺虫剤である。捨てていく袋でそれが判る。これほどまで農薬を撒くのかと、同じ農業者として驚くほど撒く。消費者が見ると、もうキャベツは食いたくなくなるだろう。僕もそれ以来キャベツを買わなくなった。草刈りなどしない。畑が広大だから、周囲は全て除草剤で処理している。
彼らの畑には草一本生えてはいない。それが自慢なのだろう。しょっちゅうトラクターでかき回しているから、草の生える暇がない。いかにもエネルギーの無駄に思える。草がないから大雨が降ると一挙に土が流れ出す。周辺のアスファルトには彼らの畑の土がたまっている。それが側溝を埋め、除草剤と農薬のたっぷり含まれた土が表面を流れて川に入っていくという仕組みだ。
百姓はまず、自らの襟を正すべきだと思う。彼らだけに限ったことでなく、多くの百姓が同じようなものだ。自分の畑にゴミを捨てるから、その習慣が他に行っても出てしまうのだ。
第3条申請が認可された
第3条申請が認可された
片岡 永
新規就農者にとって最も難関な条件が、この農地法第3条の申請である。最も難関でありながら、まず最初に越えなければならない壁なのだ。これを越えると後は比較的楽なものだ。
農地法第3条とは、町(あるいは居住する自治体)の農業委員会がその人を農業者として認めるかどうかということだ。この後、農業資金を借りるにしろ、新たな土地を借りるにしろ、まずここで農業者として認めてもらわなければ後が続かないから、ここが肝心である。
条件はまず5反の田畑を確保すること。その方法に付いてはコラム「新規就農者の壁、農地法」を参考にしていただきたい。僕が実際に行ってきた認可方法に付いて記していきましょう。
とにかくまず、5反の畑を個人的に借用する。それから僕の町の場合は産業振興課の農業委員会事務局に行き、事情を説明し、申請書類を入手する。記する内容は「農地法第3条の規定による許可申請書」で、土地の所在地、面積、所有者など。「営農計画書」で、農業従事者及び農機具等所有状況、申請農地に対する作付計画、通作の方法(自宅から畑まで何で何分かかるかという意味)、今後の計画、作目名(野菜の種類)、生産規模(面積)、単位規模あたり生産量(1反当たりの収穫量)、総生産量、月別の作付け体系、月別の労働時間・・・まあ概ねこんなところか。
これを提出すると翌月の農業委員会に諮って審議され、次に面接がある。まあ2−3人の面接官かと思っていたら、全農業委員が参加していて、20人ほどいる中に放り込まれた。現状と今後の計画を自ら説明し、質問に答えた。退室後委員会で諮られ、後日通知があるという仕組みだ。僕の場合は一発で認可され、後日町から許可申請書を交付された。ここで初めて町の認める百姓になることが出来る訳だ。
これをクリアしないと耕作証明書が発行されない。資金の借用、就農認定などに必要な書類だから、どうしても越えなければならぬ壁である。
僕は制度資金を借りるために必要であったために申請をした。必要に迫られない限り面倒だと思うかもしれない。しかし今後の日本の農業政策はやる気のあると認める認定農業者を中心に資金が回っていく。家庭菜園で満足できる人ならそれで良いが、事業として農業を考えるなら闇農家ではいつまでたっても拡大を図ることはできないだろう。
職安で刺される?
職安で刺される?
片岡 永
実際に刃物で刺された訳では、当然ない。関西弁で言えば「チクられた」のだ。
2003年3月末で退社し、すぐ職安に行き申請をした。自己都合退職の場合は3ヶ月間の給付制限期間(失業手当がもらえない期間)があるから、実際基本手当の支給は7月末になる。僕は3月から実際に町の産直場に出荷し、細々とした収入はあったがそのことは黙っていた。ところが、7月の認定日に職安に行くと、事務所に呼ばれ、産直場に出荷していることがばれていたのだ。産直場の店長にも出荷の事実を確認したと、担当者は言った。僕は、ここまで調べられていては白を切り通せるものではないと直感し、その事実を認め「これはアルバイトには該当しないと思っていたから申告しなかったのだ」と話した。
職安が最も警戒しているのは失業給付の不正受給である。担当者は「それでも内職に該当するから正式な申請をせよ」と言い、そのための申請用紙を手渡した。僕はその足で産直場に行き、店長に事情を話し、出荷している旨の証明印をもらい、またすぐに職安にとって返して提出した。その早い対応が担当者の心証を良くしたのだと思う。不正受給とはせず、知らなかったからだとして始末書を書くだけにとどめてくれた。
書き終えて、「でもどうして判ったのですか」と問うた。すると通報があったのだと言う。もちろん誰からだとは言わなかったが。僕はじっと考えてみた。僕が産直場に出荷しながら失業給付を受けていることで被害を被っている人はいないはずだ。となると正義感から、誰かが通報したということになる。何のためにそんなことをと、かなり落ち込み疑心暗鬼にもなった。給付の事実を知る人は産直場関係者にはいないはずだ・・・、そうかと思い当たったのは5月に行ったある集まりのことだ。そこで僕は確かに、失業保険を受けながら出荷しているという話をみんなの前でしていた。通報するとすればその場にいた人としか思い当たらない。
随分と悔しい思いを当時はしたが、結果的に言うと、それで良かった。その後は月に何日畑に出て、何日出荷して、いくらの売り上げがあったと正直に申請した。金額が少なかったので支給額を減額されることなく、毎月おどおども、こそこそもすることなく職安に行くことができた。あれがもし黙ったままであったら、不正受給は倍額にして返金しなければならないから、ばれないように、本当におどおどとしながら通っていたことであろう。
この件で感じたのは、やはり正直が一番だと言うことだ。公務員は融通が利かぬが、利かぬからこそきちんと申請をし、マニュアル通りだと問題なく通過できるのだ。担当者は最後にこう言った。「これでもしまた通報があっても、あの方はきちんと申請をされていますから問題ありませんよと言いますから」と。
失業給付金額はサラリーマン時代の収入や期間によって違うが、僕の場合一日8216円、28日分で23万ほどあったから、大いに助かった。失業保険は自分が今まで払ってきたものだ。正直に申請し、胸を張って支給を受けよう。
新規就農者の壁、農地法
新規就農者の壁、農地法
片岡 永
農家の息子でない者が農業者になろうと思えば、農地法第三条に関わる認定を、地域の農業委員会から受けなければならない。実はこれがかなり難しい壁になっていて、新規就農者の受け入れを拒んでいる大きな要因となっている。
元来は田畑を簡単に転用できないようにするための法律なのだが、新規就農者にとってはかなり高いハードルとなっていて、ここで諦めてしまう人も多いのだ。問題は農地の取得にある。田畑などの農地は農業委員会が認めた農業者でないと売買も賃貸もできないと定められている。一方で、新規に就農しようとする者は5反以上の農地を確保していなければ農業委員会は認めない。ここに大いなる矛盾がある。では新規就農者は、どうやってその5反の農地を確保するのかということだ。
現実には闇で借りるしかない。地主との個人契約でとにかく5反の借地契約をするしかないのだ。この農地の斡旋は、役場でも農業改良普及センターでも、農協でもやってくれはしない。あくまで自分で探して個人契約をするしかないのだ。そんなことができるのか、と普通なら思ってしまう。実際はかなり困難なことである。それがまかり通っているこの法律自体がおかしいのだ。
だが、方法はある。実際に私は個人契約で7反の畑を借り、農業委員会に申請をして認められた。どうすれば地主と個人契約が結べるのかと言えば、地域の仲介者を立てるしか方法はないだろう。農地はいくら空いていても、見知らぬ者には貸してはくれない。小作権が発生し盗られてしまうとの危惧を地主が抱くからだ。信用のできる地元の農家と仲良くなり、時間を掛けて、空いている畑を借りたいと言い続けることだ。農家は情報が通じているから、何処の畑が空いているなどと良く知っている。焦らず、いかに自分が真剣に農業をしたいのかということが判ってもらえれば、必ず良き仲介者となってくれるだろう。諦めてはいけない。
農業担い手へ規制を緩めて
農業担い手へ規制を緩めて
片岡 永
40歳になったら農業をしようと思っていた。準備に3年間を費やし、42歳で17年間勤めた会社を辞めた。それから更に1年、今月ようやく新規就農者の認定を受け、町の認める農業者となることができた。
農地法では、農地の売買、賃貸については農業者でなければならないとされ、一方で新規に農業を始めようとする者は農地を確保していなければ新規就農者として認められない。
日本の食糧自給率の驚くべき低さを知り、農産物の生産者となって自給率改善の一助となりたいと渇望しても、農地を持たない者は容易に生産者になれないのだ。
確かに、農地を守るという法律の趣旨は理解できるが、担い手不足に悩む地域農業の将来を考えると、時代にそぐわない。
私は強い信念を持ち、長い時間を掛け、ようやく第一歩を踏み出すことができた。この上は農業者として自活し、地域に安全な食糧を供給していくことが目標である。
2005年06月28日
農業への転身、信念貫き実現
農業への転身、信念貫き実現
片岡 永

土地もない、家もない、施設も機械も道具もない。全くなにもないところから農業を始めようと言うのだから、確かに大変なことでは逢った。「残りの人生を農業者として生きていきたい」という強い信念だけがあった39歳。
それから3年間の計画で畑を借り、道具をそろえ、植物生理を勉強し、農業塾に通い、農家研修に行き、資金を貯めた。
恩ある会社にはできる限り迷惑を掛けぬよう1年半前に辞意を伝え、部下の育成と仕事の引継に十分な時間をとった。3年間でほぼ計画に近い準備を整え、昨年3月に退社。それからさらに9ヶ月を経た今月、農地法第3条の規定による認定を受け、ようやく町の認める農業者となることができた。
新規就農を目指す人の多さは就農セミナーに行ってみてよく分かる。多くはこの農地法の壁で挫折するとも聞いた。しかし、あなたが本気ならできる。何もなくても、信念と時間があれば必ず突破できる。(
あと30年をどう生きるかということ
あと30年をどう生きるかということ
片岡 永
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1960年生まれだから、私の年齢は勘定がしやすい。1980年に二十歳、2000年に40、2030年に70である。
父は1930年というやはり数えやすい年に生まれ、1998年68歳で去った。私もまあ、世のために働ける年齢は70までだろうと思っている。そう考えると、残された人生は概ね30年である。しかしこれは、大病もせず、大怪我もせず、事故にも遭わずという幸運が続いたという仮定の話であるが。
さて、その残り30年間をどう生きていけばいいのかという問題に、ここ数年間悩んできた。そうして3年前、ようやく決心がついた。決心はついたものの、将来に対する不安が払拭されたわけではない。むしろ不安は増大した。決心とはただ、生きていく行くべき方向が決まったというだけの話である。
不思議なもので、決心がつくと今まで見えなかったものが見え始め、感じられなかったことが感じられるようになってきた。その上、死への恐怖心が薄らいだようにさえ思えてきた。
いずれは死ぬのだということを判ってはいても、自分の死はずっとずっと先のまだ影さえみえぬところにあるものだと思っていたから、現実として考えたことなどなかったし、考えようとしたこともなかった。それが「残された30年をどう生きようか」と悩むようになった。マラソンでいえば21キロの折り返しを過ぎ、25キロ辺りを走っている段階だろうか。ゴールまでの残り18キロ足らずにどういう走りをしようかと考え始めたのだ。
わが同人に、「今度の例会が最後かもしれぬと思いながら、今日も来られたことにただ感謝している」と話してくれた人がいた。その人は残された自分の時間をナイフで削ぎ取るが如く、自分の魂を一文字一文字に置き換えながら原稿用紙に書き残している。聞いていて涙が出た。その人から見ると、まだ若いくせに傲慢だと思われるかもしれない。死の恐怖が薄らいだなど生意気だと思われるなら「自分も死ぬのだということが、ようやく腹に落ちた」とでも言おうか。
巧く生き通せても30年。ならば、やはり思うように生きるしか道はない。それがために苦労しようが貧乏しようが、あるいは死んでしまおうが、納得のいく生き方をするより他、自分の生き方はない。
友人からは、家族のある身で自分勝手だとも言われた。妻には判ってもらえるまで説得すればいいし、子に残すべきは金でも財産でもなく、親の生き方なのだと考えている。
自分の身の周りにいる人たちを幸せにすること、次の次の世代にまで少なくとも自分たちと同じ地球を残すこと、それらのことに努力したことを語り継いでもらえること。そんな生き方への決心がついて、残された30年間を農業に費やそうと決めたのだ。
2005年06月25日
彼と同じ風 その2
彼と同じ風
片岡 永
知らぬ間に夏が過ぎ、秋が行き、気が付いたら春になろうとしていた。明日香は幼稚園の卒園を間近にし、前歯が二本生え替わった。
どんなに母が辛くても、日毎に成長する子供が頼もしいかった。泣いても泣いても涙は尽きず、ため息をついては過ごす毎日だった。ベランダの洗濯機の渦を見つめていたある日、沈丁花の香りが鼻先に漂っているのに気づいた。誘われるようにして庭に出てみた。庭には彼の乗っていたオートバイがカバーをかぶせて置いてあった。沈丁花はその横で香っていた。春の陽が眩しかった。多美子は目を閉じて息を飲み込んだ。植物たちの芽吹く匂いがした。今まで感じたことのない生きる力のある匂いだった。多美子は、カバーの上からそっとオートバイに触れてみた。冷たいナイロンの下に、押し返すシートの感触があった。思い切ってそのカバーを取った。XL250のヘッドライトとミラーは割れ、ハンドルは内側に曲がって、フロントフォークと前輪はねじれていた。チェーンや、倒れた時に擦ってへこんだタンクは錆びていた。多美子はそのXL250を、じっと見ていられる自分に気がついた。心の中に占める彼の思い出に、悲しみとは違う見方で相対していられる自分に始めて出会った。まだ明日香の生まれる前、彼の後ろに乗ってよくツーリングに出かけた。楽しかった思い出より、雨にあったり、お尻が痛くてたまらなかったり、寒さに震えたような辛いことばかりが思い出された。
突然、私もオートバイに乗ってみたいと思い立った。彼の好きだったオートバイに私も乗ってみたい。彼が感じていたと同じ風を私も味わってみたい。何故彼はオートバイが好きだったのか、何が彼を虜にしたのか、自分の体で感じてみたくなった。
2005年06月24日
彼と同じ風 その1
彼と同じ風
片岡 永
花屋の女主人は毎度おおきにと客を送り出し、ふうっと息をついた。レジの横からほおきを取り出し、肥った体を重そうに動かしながら店内に散らかった切り花のゴミを掃き集め始めた。強い陽射しが店内の前の道路を白く照らしていた。集めたゴミを塵取りで取り腰を伸ばした。ショーウインドのロールスクリーンを降ろそうとした時、店の前にオートバイが止まった。もう二十六日か、と女主人は思った。
多美子はオートバイのエンジンを切り、ヘルメットと手袋を取った。首の後ろに両手を回し、一つに結んだ髪を持ち上げて首筋に風を通した。ブルージーンズの尻のポケットにキーを突っ込み、ヘルメットを持って店に入った。クーラーの冷気が全身を包み込んだ。
多美子きほっと息をついた。女主人は笑顔でいらっしゃいと言い、「暑うなったねえ」と疲れたような顔をした。
「すっかり夏やね」
と多美子が言った。
「仕事のほうは順調にいってる」
女主人は持っていたほうきと塵取りをレジの横に片付けながら言った。
「ありがと。だんだん面白くなってきたわ」
「そう。それは良かったやない。そやけど気をつけてよ、あれ」
店の前のオートバイを指差した。゛もうあんなことごめんやで」
「わかっているわ。私が一番わかってるんやから」
「そりゃそうね」
「今日で丸三年」
「もう三年」と彼女はあごを引いて驚いて見せ
「早いもんやねえ。私も年取るはずやわ」
と言った。
女主人は笑顔をのこしながらバケツに差してある花を取っていった。カウンターに戻って手際よくラッピングしながら、あの頃の彼女は本当に見る影もなかったと思い出していた。自転車を押して毎月二十六日に花を買いに来るのだが、初めの頃は見ているほうが辛いほどしょげていた。黙って花を受け取り、黙って出て行った。その彼女がこうしてオートバイでやってきて、笑顔を見せるようになった。Tシャツにスリムのジーンズという格好に、長いパーマヘアがよく似合っていた。改めて歳をたずねたことはないが時々連れてくる女の子の歳から考えても三十近いはずた。最初の頃よりかえって若くみえるのが不思議だった。
「あんた、ほんまに強い人なんやなぁ」
と女主人は言った。多美子は口元に手を当ててケラケラと笑い、
「そう見える。ほんまはね、すごく弱虫なんよ」
と言って、女主人の顔を見つめた。
いつものようにオートバイは店の前に置いたまま、女主人に水の入ったバケツを借り、多美子は花束を抱えて交差点まで歩いた。すぐに汗が吹き出した。蝉の鳴き声が聞こえていた。アスファルトの地面がゆらゆら揺れているように見えた。今年もあの日と同じように暑くなった。交差点の歩道の隅に置かれた黄色いバケツの花は、枯れて茶色くなっていた。水が無くなっていないのは、その前の雑貨屋の主人が時々入れてくれているからだ。
多美子は古い花を取り、水を捨てた。新しい水でバケツを洗い、持ってきた花と水を差した。手を合わせ、目を閉じた。走り抜ける車の音や蝉の声がふっとなくなった。じりじりと首筋を焼かれているのが分かった。立ち上がって雑貨屋の主人に声を掛け、礼を言った。店先の風鈴が鳴っていた。
墓参りに行くより先に、彼の好きだった海に行ってみたかった。河口を渡る大きな橋を越えると海の匂いがした。油の浮いた海だが、町の匂いとは確かに違っていた。オートバイは風の匂いが肌で感じられるんや。といつも彼が言っていた。
思えば、結局最後となったツーリングから帰ってきた夜だった。ビールを飲みながら、赤く焼けた腕を、手袋で焼けていない白い掌でさすりながら「エアコンの効いた車の中は確かに快適やけど、どこにいっても同じなんや。寒うても暑くても、エアコンで設定した温度どおりなんや。そんなんおもしろいこともなんともあらへんやろ。けどオートバイは違うで。夏は股の下から熱気が上がってきてむんむんしよるし、冬はごっついブーツ履いても分厚い靴下履いてても足の指先の感覚がなくなるくらい寒いんや。辛いで、オートバイは。その代わりに海にいったら潮の匂いがしてきよるし、街にいったら街の匂いがする。田舎にいったら田舎の匂いゆうのんがあるし、山に入ったら木の匂いがしてきよるんや。雨が降ったら、どんなええレインコート着ててもパンツの中まで濡れてきよる。真夏でも寒いんやで。泣きとうなってくるで。辛うて辛うて、なんでわしこんなことしてんねんて思うけど、雨が上がって雲の隙間に太陽の光が見えてきた時のあのうれしさ。感動もんやで。パンツなんかすぐ渇きよるがな。長い長い峠道を走っててな、やっと頂上が見えて、その坂を登り切ったらぱあっと目の前が海や。想像せえよ。白い波がちろちろ動いててな、そこにねとっとした潮の匂いがしてくるんや。峠の下り坂なんか走ったら、だあっと海に突っ込んでいく気がするで。そんなんのほうがよっぽど人間的やと思わへんか。いろいろなことがあったほうがおもしろいがな。」
普段あまり喋らない人が、その時は詰まりながらもよく喋った。左手に煙草を持って、遠い目をしていた。きっと彼は自分の話の中に海を見ていたんだ。
多美子は港の大通りを走り抜け、フェリーターミナルを過ぎ、南港の先端にある埠頭にオートバイを止めた。大きなコンクリートのもやい杭に腰を下ろした。ギラギラと光る大阪の海を見ながら、煙草をつけた。煙は頬を伝わって、流れて消えた。太陽はゆっくり傾きかけていた。

(彼と同じ風 その2につづく)
