2005年06月28日

あと30年をどう生きるかということ


  あと30年をどう生きるかということ                    
           片岡 永
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1960年生まれだから、私の年齢は勘定がしやすい。1980年に二十歳、2000年に40、2030年に70である。
 父は1930年というやはり数えやすい年に生まれ、1998年68歳で去った。私もまあ、世のために働ける年齢は70までだろうと思っている。そう考えると、残された人生は概ね30年である。しかしこれは、大病もせず、大怪我もせず、事故にも遭わずという幸運が続いたという仮定の話であるが。
 さて、その残り30年間をどう生きていけばいいのかという問題に、ここ数年間悩んできた。そうして3年前、ようやく決心がついた。決心はついたものの、将来に対する不安が払拭されたわけではない。むしろ不安は増大した。決心とはただ、生きていく行くべき方向が決まったというだけの話である。
 不思議なもので、決心がつくと今まで見えなかったものが見え始め、感じられなかったことが感じられるようになってきた。その上、死への恐怖心が薄らいだようにさえ思えてきた。
 いずれは死ぬのだということを判ってはいても、自分の死はずっとずっと先のまだ影さえみえぬところにあるものだと思っていたから、現実として考えたことなどなかったし、考えようとしたこともなかった。それが「残された30年をどう生きようか」と悩むようになった。マラソンでいえば21キロの折り返しを過ぎ、25キロ辺りを走っている段階だろうか。ゴールまでの残り18キロ足らずにどういう走りをしようかと考え始めたのだ。
 わが同人に、「今度の例会が最後かもしれぬと思いながら、今日も来られたことにただ感謝している」と話してくれた人がいた。その人は残された自分の時間をナイフで削ぎ取るが如く、自分の魂を一文字一文字に置き換えながら原稿用紙に書き残している。聞いていて涙が出た。その人から見ると、まだ若いくせに傲慢だと思われるかもしれない。死の恐怖が薄らいだなど生意気だと思われるなら「自分も死ぬのだということが、ようやく腹に落ちた」とでも言おうか。
 巧く生き通せても30年。ならば、やはり思うように生きるしか道はない。それがために苦労しようが貧乏しようが、あるいは死んでしまおうが、納得のいく生き方をするより他、自分の生き方はない。
 友人からは、家族のある身で自分勝手だとも言われた。妻には判ってもらえるまで説得すればいいし、子に残すべきは金でも財産でもなく、親の生き方なのだと考えている。 
 自分の身の周りにいる人たちを幸せにすること、次の次の世代にまで少なくとも自分たちと同じ地球を残すこと、それらのことに努力したことを語り継いでもらえること。そんな生き方への決心がついて、残された30年間を農業に費やそうと決めたのだ。

By myfont @ 06:31 PM | 片岡永の百姓随想 | コメント (0) | トラックバック (0)

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