2005年07月03日
爽やぎの雨 その4
爽やぎの雨 その4
片岡 永
加奈子と出会ったのは二十年前である。私立大学の学生食堂でのことだった。加奈子はそこの学生だったが、慎一郎は単なる食堂のアルバイトだった。その日カレーを盛りつける担当だった慎一郎が、忙しさについステンレスの皿を手荒くカウンターに置いた。ちょうど並んでいた加奈子の洋服に、置いた皿のカレーが飛んだ。悲鳴を上げて飛び退った拍子に、持っていたトレーからサラダの皿やスプーンが落ちた。その物音で慎一郎が顔を上げると、
「なんて置き方するのよ」
と加奈子が慎一郎に言った。
「どうしたん」
間の抜けた返答に、一緒にいた友達が怒りだした。
「あんたが乱暴にお皿を置くから、カレーが飛び散ったじゃないの。見てごらんなさいよ」
加奈子の白いワンピースを指した。胸の辺りにカレーの黄色い汁が飛んでいた。
「どうしてくれるのよ、この染み」
学生の列がざわめき始め、奧から店長が出てきた。店長は濡れ布巾で加奈子のワンピースを拭いながら丁寧に謝り、後でクリーニング代を届けるからと学年や名前を書き留めて
いた。
慎一郎は、その月の給料からクリーニング代を差し引くからなと言われ、その日に首になった。今日お金を届けてこいと封筒を渡され、もう明日から来なくていいからなと念を
押された。
夕方、渡された封筒を持ち、教室に加奈子を訪ねた。加奈子はお昼の友達と帰り支度をしているところで、今日は申し訳ありませんでしたと詫びる慎一郎の顔をじっと見ていた。
受け取った封筒をぴっと破り、
「なにこれ?」
と言った。
「クリーニング代です」
加奈子は千円札三枚を振りながら、
「あんたねえ、この洋服いくらすると思ってんのよ。こんな染みの付いたもの、もう着られるはずないじゃないの。あんたのその白衣じゃあるまいし」
慎一郎の白衣には、油やカレーやケチャップの染みが方々に付いていた。
黙って頭を下げている慎一郎に、
「まあいいわ。このお金あんたに返すから、それで今晩の夕食でも奢ってちょうだい。それでいいから」
慎一郎は上目遣いに加奈子を見た。「どうなの、嫌なの?」
慎一郎は首を振ったが、
「これでは足りないんじゃあないですか」
「足りなきゃあ、あんた出しなさいよ」
慎一郎は躊躇した。財布には二千円もないことを知っていた。
「どうするのよ。夕食奢るの、それとも新しい服買ってくれるの。その十倍ほどするわよ」
どうにでもなれと、慎一郎は頷いた。足らない分は皿洗いでもしようと思った。
加奈子が連れていったレストランはフランス料理店で、常連らしくマスターと親しげに喋っていた。友達二人も付いてきていて、最初から足らないことは判りきっていた。どうせなら食ったこともない旨い物を食ってやろうと腹を括った。
加奈子は慎一郎に、何故学食で働くようになったのかとか、何処でどんな生活をしているのかとか、今日の顛末はどうだったのかとか、出身はどこかとか、趣味はなんだとか、血液型はなどと矢継ぎ早に訊ねた。その度に友達と盛り上がっていた。三人の中で、加奈子が一番の親分肌であったし、見た目も一番綺麗だった。いかにもお嬢様という感じで、フォークとナイフの使い方も堂に入っていた。
食事が終わり、加奈子は伝票を慎一郎に回しながら、ご馳走様と言った。一万八千円だった。慎一郎はレジでマスターを呼んでくれと言った。いつもありがとうございます、と出てきたマスターに四千七百五十円を出し、今日はこれだけしかないから足らない分は店で仕事をさせて欲しいと言った。はあ、と聞き返したマスターに同じことを繰り返した。
後ろで加奈子が笑った。
「いい度胸してるじゃないのあんた。マスター、彼を雇ってあげてよ。丁度今日、学食を首になって、明日から仕事がないの」
「雇うのは構いませんが」
「ほんと、じゃあお願いね」
そう言いながら加奈子は自分の財布から二万円を出してレジに置いた。先に出していた金はそのまま慎一郎に返してくれた。
慎一郎は本当にその店で雇ってもらい、加奈子が来る度に挨拶を欠かさなかった。三ヶ
月ほどして加奈子は、
「四畳半一間に流し付きの部屋ってどんなの」 と慎一郎のアパートにやって来たのだった。
西木にはその後三回会った。ハウスの答を聞くためであったが、余りしつこくせっつくと嫌気がさすだろうから、いつも遠慮がちに訊ねた。西木は忙しいのに時間を割いて担当課長と折衝してくれたらしく、現状報告はしてくれたが、やはりハウスの借用は難しそうであった。町では新たに募集を掛け、借用農家を探す方向に向いているという。この段階で自分への可能性はなくなったと慎一郎は確信できた。二反の内のここにアスパラを植え、あそこにはテーブルや椅子を置いて将来はアスパラの観光農園をしようなどと夢を膨らませていただけに、白紙に戻ったショックは大きかった。
西木から電話があったのは慎一郎がハウスの借用を諦め、次の手をどうしようかとようやく考え始めた頃だった。
「下の露地やけどな、斎藤君が貸してもよさそうなこと言うとるぞ。一度会ってみるか」
慎一郎は、夕方行きますからと声を上擦らせた。嬉しさが込み上げてきた。
長い夏の陽の落ちかけるころ、慎一郎は畑の前で西木と待ち合わせた。そこに地主の斎藤がやって来た。痩けた頬に帽子を被り、よれよれの作業着を着、鼻の下と顎に薄い髭を生やしている。西木より十ほど若いだろうか。
斎藤は弱々しげな声で畑の広さや地質や、かつて栽培していた作物のことを説明した。
二年間手を入れていないと言う畑は、セイタカアワダチソウが伸び放題に伸びている。その中にパイプハウスの骨組みが見えている。草はハウスの天井部分より高く伸びているから三メートルにはなっているのだろう。
払っても払っても蚊がまとわりついてくる。西木は蚊の多さに閉口しながら、しきりと煙草を吹かせている。
ハウスの長さは四〇メートルあると斎藤が喋っている。中ではトマトを作っていた。露地では茄子を作っていた。
「あそこに支柱が残っているでしょう」
ようく見るとセイタカアワダチソウの間に、茄子栽培用の外に湾曲した支柱が見える。
西木は盛んに首筋や腕の蚊を払っている。
「それで貸せるんかえ貸せないんかえ、どうなんや」
いらだつ口調で西木が言った。斎藤は
「年二万円くらいでどうやろう」
ぼそりと言った。
「貸して頂ける、ということでしょうか」
慎一郎の言葉に斎藤は頷いた。
「ありがとうございます」
慎一郎は深く頭を下げた。用意してきていた缶ビール一ケースを斎藤に、西木にはウイ
スキー一本を渡して何度も礼を言った。
2005年07月01日
爽やぎの雨 その3
爽やぎの雨 その3
片岡 永
慎一郎が久しぶりに平沼と会ったのは、その週末の夜だった。先に来た慎一郎がカウンターで飲んでいるところへ平沼がやって来た。
彼は五つ上の四十五歳だが農業塾の同期生で、昨年就農した新規就農の先輩である。青汁の原料となるケールを隣町で一町五反栽培している。
「暑かったでしょう」
慎一郎がビールを注ぐとそれを一息で飲み干し、
「脳味噌がとろけるかと思うほど暑かった」
と笑った。早朝から畑に出てケールの手入れをし、日中は青汁の配達に行く。そして夕方また畑に戻り、収穫作業と納品をするのだと話す。彼はケール栽培のほかに、それを原料とした青汁の販売も兼ねている。新しく立ち上げた青汁会社に納品しているため、生産者も手伝わないと自分のケールが捌けないと言うのだ。そのため土日には近くのスーパーや朝市で試飲会を開いたり、新規顧客開拓の営業活動にも時間を取られている。しかしそこまで働いてもまだ食えないからと、定植を終えてから収穫までの三月間は現金収入のためにアルバイトをしているのだ。サラリーマンである慎一郎の倍も働き、収入は慎一郎よりも少ない。
「永峰さんもやってみると判るよ。これが百姓の現実なんや」
と先輩平沼はよく話している。
慎一郎が今日、平沼に会いたかったのは先日の西木との事を相談したかったからだ。ビ
ールを二本空け、焼酎に切り替えたところで慎一郎が、実はと切り出した。
西木との四回の進展を最初から話した。
「今までの話の内容から考えたらもうあの人の信用は得られたと思ってたんや。それが今回、なに企んでるのやときたもんやから、すっかり自信を無くしてしまってねえ」
慎一郎は焼酎ロックをぐびりと飲んで続けた。「かといってな、ほかに畑を借りられる当てもない。あのハウスが駄目でもせめて下の露地を借りられたら、そこを拠点に将来広げて行かれるやろうとは考えてたんや。畑借りるちゅうのは、難しいもんやねえ。しょせん新規就農者なんてもんは、何処の馬の骨か判らんと思われてるんやなあって、今回ほんまにそう思ったわ」
平沼は頷きながら聞いていたが、途中でへへっと笑い始めた。
「今の農家にしてみたら、新規就農者なんてものは全く理解できん人間なんや。そりゃあそうやろ、自分の息子は土地もハウスもトラクターもあって、親身になって教えてくれる指導者が目の前におって、その上親は車を買ってやり、家を用意してやり、嫁さんまで世話しようという意気込みで誘いを掛けて、そこまでしても自分の息子は継いではくれんのやで。それが現実なんや。それをあんた、我々みたいに土地はない、機械はない、経験はない、指導者もおらん、それでも将来性のない農業をしたいやなんて、彼らにとっては摩訶不思議以外の何者でもないやろう。あほと違うかと思われとる。信用してくれと言う方が間違ごうとる。頭から疑がってかかって、そりゃあ何か企んどると思われて当然やろう。
四回や五回会ったからというて信用してくれるはずはないがね。馬の骨よ、馬の骨。しょせん我々は、彼らにとったら馬の骨でしかないんよ」
言われてみると確かにそうだと慎一郎も思った。
土地をもたぬ物は、何よりも土地が欲しい。
どんなに農業をする気があっても、畑や田圃がないとそれができない。二十坪や三十坪の土地ではどうにもならぬ。
「駄目で元々やないか。当たって砕けろや」 と平沼は気焔を揚げた。「そこが駄目なら次、次も駄目ならその次とどんどん当たってみろ。土地なんていくらも空いてるんや。これからもっと空いてくる。心配せんでいい、きっと見つかるよ。農家はお前さんを知らんから貸してくれへんだけなんや。本当は只でもええから借りてもらいたいと考えてるんや。知らない者に貸して先祖代々の土地を取られるのが怖いから、何処の馬の骨か判らん者には貸さんだけや。その土地に根付いてその土地で耕作を始めたら、向こうからやって来て、俺のところも借りてくれんかって言ってくるよ。本当や。俺がそうやったもの。百姓は、自分の土地が荒れていくのを見るのが一番辛いんやで」
平沼の言葉に勇気が出た。もう一度西木に会ってみようと思った。「それよりお前さん、嫁はんの説得はできたんかいな」
以前から言われていたことで、土地と並び慎一郎を悩ませているもうひとつの事柄であった。新規就農者は家族の協力がないとできない、特に奥さんがその気になってくれないと駄目だと、多くの人から言われていたし、その手の本にも書いてある。平沼と通った農業塾でも、夫婦の参加者は多かった。定年近かったり、すでに定年退職した人たちだったが、夫婦の新しい生き方を二人で模索しようとしている姿は、慎一郎の目に羨ましく映った。
妻の加奈子に初めて話した三年前の正月、彼女は最初から反対をした。
「あなたはいつも自分勝手だ」
となじり、「二人の子供たちを養って生活していけるの、マンションのローンの支払いもあるのよ」
現実的な問題点を心配した。当然のことだ。慎一郎は、失業給付と貯蓄で二年間は大丈
夫、それまでに事業を軌道に乗せるからと説得をし、
「今と同じ生活レベルは無理だが、アルバイトでも何でもして食うに困るようなことにはさせないから」
「マンションはどうするのよ」
「処分しよう。古い農家を借りればいい」
加奈子は首を振り、
「嫌よ。貧乏生活なんて私、嫌だわ。それに古い農家になんて住みたくもない。鼠や蛇でも出てきたらどうすんのよ」
何度も何度も話し合った。それでも加奈子は、私は嫌の一点張りで
「どうしてもやりたいのなら一人でやってちょうだい。私は農業なんかしたくないし、このマンションも出ていきたくないわ。やるならどうぞご勝手に」
と言った。彼女はチェーン展開するレストランで店舗開発部の社員として働いている。
それをそのまま続けてもらい、確実な現金収入のあるほうがよかろうと考え直した。
思い返せば、加奈子の両親からも自分は、何処の馬の骨かと思われていたのだ。
爽やぎの雨 その2
爽やぎの雨 その2
片岡 永
四月に定植したトマトの苗が、もう背の高さほどにも成長していた。成長はしたが、細くいかにも頼りなげで、支柱がないと立ってもいられない状態だ。葉も少なく、その葉にも茶色い穴が無数に開いている。葉を裏返してみて慎一郎は驚いた。ナナホシテントウと同じほどの大きさなのだが、斑点が二十八個あるニジュウヤホシテントウがびっしりと張り付いていた。ナナホシテントウはアブラムシを食べる益虫なのだが、ニジュウヤホシは葉を食害する。
葉裏に張り付いた虫は、蠢きながら葉を囓っている。囓る音さえ聞こえてきそうな程だ。見ていて寒気がした。彼は葉を揺さぶって虫を落とした。落ちた虫は長靴で踏み潰した。
落ちずに飛び立つ虫が一面に散り、彼の首筋や胸元にも入り込んできた。シャツのボタンを外し、首筋を開き、体を二つ折りにして背中にまで入った虫を叩いて払い落とした。落ちずに首や肩で潰れた虫は生臭い臭いがした。違う葉を裏返すと、やはり同じようにびっしりと虫が張り付いている。揺すり落として踏み潰すのが面倒になり、葉ごとちぎって握り潰した。掌の中に甲虫の小さく固い感触があり、力を込めるとぷつぷつと潰れた。ニジュウヤホシテントウはいくら潰しても、数日して来てみた時には、同じように葉裏に張り付いているのだった。そうして間もなく十本植えたトマトは、全て枯れ果ててしまった。
個人農家が果樹園の一角を家庭菜園用に貸す畑を、昨年秋から借りていた。一区画が縦五メートル、横三メートルのわずか十五平米で、年間六千円。それを五区画で、年間三万円払っている。農家が聞けばびっくりし、馬鹿かと笑うほどの賃料だ。しかし畑を持たぬ者にとっては、そんな馬鹿みたいに高い賃料を払ってでも貸してくれることが有り難かった。そこに五メートルの畝を作り、大根を植え、白菜や春菊を植えた。殻を破り、土から現れる小さな小さな芽を見つけると嬉しかった。
春になると馬鈴薯を植え付け、シシトウやオクラや葱、ほうれん草、枝豆、人参、苺、キュウリ、茄子、トマトなど、ホームセンターで種や苗を買ってきては何でも植えた。何を何時、どういう植え方をすればいいのかさえ判らなかったから、教科書を見ながらとにかく何でも植えてみた。
全滅したのはトマトだけではなかった。茄子もニジュウヤホシテントウに襲われ一個の収穫もできなかったし、枝豆も順調に生育しようやく莢を付けたが、ある時からカメムシに襲撃され、成長した莢は養分を吸い取られて脹らまず、成長途中のものはそれ以上大きくならなかった。カメムシは枝豆の葉の上で交尾をしていた。見回すと、あっちでもこっちでもしている。目を近づけてみても逃げようともしない。動物のように腰を動かしはしないが、何となく気持ちよさそうな顔をしている。自分は随分と交尾をしていないのにと慎一郎は溜息を吐いた。彼らの乗っている葉を静かにちぎり、地面に置いた。そうして「失楽園じゃい」と言いながら、長靴で一気に踏みつぶした。
それでも本当にわずかの枝豆らしきものを持って帰り、鍋に淋しく浮かべて湯がいてみた。食べてみると、枯れた苦い味がしてとても食べられたものではなかった。湯がいた莢を開いてみると、小さなカメムシがそのままの形で入っていた。口中に残っていた苦い豆を慌てて吐き出した。
夏の盛りの日曜日、慎一郎は四度目の西木を訪ねた。六本入りの缶ビールを下げて行った。西木はキュウリのハウスに居た。何段にも横に張った糸にキュウリの蔓を這わせる誘引作業の最中であった。
「おう、ええところに来たなあ。ちょいと手伝ってくれや」
西木はビニール紐をキュウリの枝に三度巻きつけ、それを横糸に引っ張り上げる方法をやって見せ、「判るやろ。それをずっと向こうまでな」
ハウスの奥行きは五十メートルはありそうだった。西木とは作業している列が離れているので話すこともできず、慎一郎はただ黙って誘引作業を行った。しかしこうして気楽に声を掛けてもらえるようになったことが嬉しかった。
先にひと段落つけた西木が、一服しようかと声を掛けてくれた。ハウスを出ると風が心地よかった。並んで腰を降ろし、煙草を点けた。西木がビールのお礼を言い、間を置いて続けた。
「振興課の広瀬がな、ああ、そこの課長が広瀬って言うんやけどな、この前そいつに話をしたんや」
西木は隣の慎一郎の顔を見、また前に視線を戻した。「そしたらな、なんや渋ってるんやな。何でやって訊ねたら、ここは町の農業振興基金で建てたハウスやから、基本的には町で現在農業をしている人に貸すもんやって。新規の、それもよその町から来た人には貸せんって言いよるんや」
慎一郎は、そうですかと小声で頷いた。
「いやまあ、そない落ち込むな。もういっぺん話したるがな。なんぼそうやとしても、現実には借りる者がおらんと空いてる状態や。実際の話がな」
西木は慎一郎の顔を覗き込んで続けた。「わしらも空いてたら困るんや。ハウスに水を引くためのポンプがあるやろ、あれの維持管理はここの五人でやってるんやが、一人でも抜けたらその分負担が大きゅうなる。早う誰かに入ってもらった方が、わしらも有り難いんや」
「ここを借りてた人は、どうして辞めたんですか。こんな立派なハウスやのに」
なんや、と西木は言った。「お前さんはそれも知らんかったんか。野田君から聞いてなかったんかいな」 そう言って、少し躊躇する表情を見せた。
この高台に立っている硬質ビニールハウスは町が農業振興基金で建設し、全部で十五棟ある。それを地権者である地元の農家六人で借り、ハウス組合を設立した。初年度は順調な滑り出しを見せたが、二年目の秋に最年少だった四十八歳の男がハウスで自殺した。原因はギャンブルで作った借金だった。
「おおそうや、ビール飲もうや。せっかく買ってきてくれたんやからなあ。ちょいとぬるうなってしもたが、あんたも一本飲みいな」 プシュリと栓を開け、ぬるいビールを口に含んだ。西木が続けた。「まだ夜の明ける前やったなあ。玄関の戸をどんどんどんどん叩くから、わしが出てみたらその男の嫁はんや。唇わなわな震わせて、泣きじゃくりながら、お助け、お助けって言うんや。何ごとや、どないしたんやって彼女の肩を揺すったら少し落ちついて、うちの人が、ハウスでって。訳も判らんけど、とにかく行こうって一緒に付
いていった。彼女の懐中電灯を頼りに、ハウスまで歩いていったんや。近くまで来るとわしの腕を取って自分は顔を背けて、ハウスを指さすんや。そこでわしはピンと来たが、それを口にしたらあかんと思うて、どないしたんや、怪我でもしたんかって聞いた。彼女は震えながら首を振って、吊った、吊ったって。想像した通りや。わしかて気色悪いけど、ここまで来たらしゃあないがな。懐中電灯取って、先に歩いてハウスの戸を開けた。丁度真ん中へんでな、天井からロープ吊して、ぶらんと下がとったわいな。下には脚立があったさかい、それに乗って吊ったんやろう。まだ生きてるかもしれんからとにかく降ろそうと思うたけど、わし一人じゃあロープが外せんし、ロープを切ろうにも刃物がない。そこらに鎌がないんかって聞いたら、どっかにあるはずやって、懐中電灯持って探しに行った。
その間わしは脚立に上がって、そいつの体を持ち上げとった。だいぶ時間が経ってたとみえて、もう指の先まで冷たかったわ。もうあかんなと思うたな。それでも彼女が探してきた鎌持って、しっかりと下から抱えとけよって言うて、頭の上のロープを切った。女に抱えられるはずもなくて、嫁はんと一緒に畑に転がってしもうたな。丁度そこへうちの奴が来てな、すぐに救急車を呼んだんや」
西木につられ、慎一郎も煙草を点けた。二人とも黙ったままでいたが、煙を吹き出して西木が、
「もう三年も暮れるかいな。嫁はんや子供は、葬式が終わったら逃げるように出ていってしもうた。わしにだけはお礼の手紙残してな。どこに行くとも、残されたハウスや機械をどうせいとも書いてなかった。中見たやろ。草ぼうぼうやったろうが。あれでも周りだけはわしが草刈りしてるんやで」
「それにしても、何もハウスで吊らなくってもねえ」
「丁度ええ梁があるやろ。あそこにロープ掛けたんや」
夜明け前の真っ暗なそのハウスで、小さな明かりを灯し、ひとりアスパラの収穫作業をしている将来の自分の姿を慎一郎は想像してみた。作業に疲れ、腰を伸ばそうとふと見上げると、梁から黒いものがぶら下がっている・・・。煙草を吹かし、しばらく考えてみたが、腹が決まるとそれでもいいと思った。
「じゃあ、もし借りられたとしても、その奥さんが帰ってきたら、明け渡さないといけな
いんでしょう」
西木は首を振った。
「帰って来やせんじゃろう。実家が九州でな、そっちで水商売しとると噂で聞いたが。まあ元々百姓の好きな人やなかったからなあ、今さら帰ってくることもなかろうで」
二人は時間を掛けて一本のビールを飲み干した。
「この下に」
と慎一郎が切り出した。「蒲鉾ハウスの骨組みだけ残された二反ほどの露地があるでしょ。
あそこは誰の持ち物なんですか?」
「斎藤って言う、この先でトマトやってる奴の土地や。二年ほど前までそこで茄子をやってたんやけど、手が回らんようになって放りっぱなしや」
「あの露地を貸してもらえないものでしょうかねえ」
西木が慎一郎を見た。
「なんや、そんな話聞いたからハウス借りる気がなくなったか?」
「いや、そういう訳じゃないんですが」
「あんたなあ、ハウスも借りたい、露地も借りたいって、百姓もしたことない人間がそんなできると思うてるんかいな。逆立ちしたってできやせんよ」
西木は長靴の踵で煙草を踏みつけながら、
「ほんまに百姓したいんかいな。なんか変なことでも企んどるのと違うやろうなあ」
いつもは柔和な西木なのに、その時の目は笑っていなかった。
爽やぎの雨 その1
爽やぎの雨 その1
片岡 永
ビニールハウスには、朝から眩しい光が射していた。今日も暑くなりそうだった。
永峰慎一郎は町道を右折し、丘への登り口でアクセルを踏み込んだ。左右に硬質ビニールハウスの三角屋根が連なり、その屋根が朝の太陽に輝いている。ハウスの中には、キュウリの苗が等間隔に、規則正しく植え付けられている。先日定植された幼苗だ。これが見る間に成長し、ひと月後には立派なキュウリを成らせてくれるのだろう。
ハウスが途切れると丘陵の頂上に出る。慎一郎は車を止めてそこに降り立った。彼の視野に広がる畑が、遠くへ緩く傾斜している。こちらに一台、あちらに一台、トラクターが動いている。白く乾いた大地に、トラクターで耕運した跡の黒く湿った土が見えている。その対比が鮮やかだ。
慎一郎は西木を探した。このあたりの畑にいると聞いてきた。見回すと西木はすぐに判った。顔は見えないが、JAと白く染め抜かれた緑色の帽子で判断が付いた。いつも西木が被っている帽子だった。
土手を歩き、顔の判るところまで来て声を掛けた。西木はトラクターの運転台からひょいと右手を挙げた。慎一郎は土手に腰を降ろし、その筋の畝立てが済むまで煙草を点けて待った。一本の畝は百メートルはあろう。エンジン音ばかりを響かせているトラクターは随分と緩慢な動きに見える。切りのいいところで西木はエンジンを止めた。ほっとするほど静かになった。
「仕事中にすみません」
慎一郎が声を掛けると、西木は胸ポケットから煙草を出し、それをくわえながら降りてきた。
「何を植えるんですか?」
「大根や」
「全部ですか?」
西木はうにずき、
「三反ある。八十万にはなるで」
西木に会うのは三度目である。最初は下のハウスで、二度目は別の畑でと、この人はあ
ちらこちらに畑を持っていて、いつ会っても働いている。
土手に腰を降ろし、並んで煙草を吸う。
「人よりいかに早う出すかは、これや」
自分の左腕を叩いてみせた。「ここの三分の一が早出し、三分の一が旬、残りが後出しや。早出しと後出しで儲けるんや」
しばらく世間話をした後、慎一郎が時に、と切りだした。
「以前見せてもらった下のハウス、あれお借りできないものでしょうか」
西木は慎一郎の顔を見た。
下のハウスとは、初めて西木と会った時に話を聞いた空きハウスの事である。
西木を慎一郎に紹介してくれたのは、研修先農家の野田だった。町一番のハウスだから、一度見ておいた方がいいと見学に連れていってくれたのだ。
慎一郎がアスパラを作りたいからと、研修先農家の紹介依頼を県の農業基金に出していたところ、同じ町の野田を紹介された。朝六時から夕方七時まで、連休を使い三日間の研修を受けた。その最終日に「町一番のハウス」を見学させてくれたのだった。
野田のアスパラハウスが蒲鉾型の低く狭いものだったのに比べ、西木のハウスは広く明るく高い三角屋根で、その中をトラクターで耕起している最中であった。野田のハウスのようなムッと淀んだ空気ではなかった。
「あれがあるからや」
西木が天井を指さした。天井には換気のための扉が三角屋根の左右二列に付いていて、
「温度を設定したら、自動で開閉するんや」
と話してくれた。
野田が「新規就農する永峰さん。今はまだサラリーマンやけど」
西木に紹介してくれた。西木は珍しそうに慎一郎を見、
「家はどこや」
と問うた。慎一郎は町の住所とマンションの名前を告げた。
「下のハウスが空いてるで」
西木が言った。
「二反あるわ。使こうてええで」
突然言われて慎一郎は狼狽した。二反もあるこんな大きなハウスをとても使い切れないと思ったから、
「とてもこんな大きな物を」
と口籠ってしまった。
「町の住人なら借りる権利はあるで。機械はあるんやろ」
いや、と野田が助け船を出した。
「新規の人やから何にもないんや」
「管理機もかえ」
慎一郎は頷いた。
「そりゃあ、たいへんやのう」
西木はそう言い、くわえていた煙草を長靴でもみ消した。
慎一郎は社員二十人程の広告代理店に勤める営業課長である。会社は小さいが、折衝する相手のほとんどは社長や経営者だ。物売りのセールスマンなら社長クラスと折衝することはないが、この仕事をしているからこそ経営者と接することができるのだと、自分の仕事に自信と誇りを持っていた。
だが、彼には二十歳の頃からの夢があった。
自分の食べる物を自分で作るという生活だ。着る物や住むところに頓着はないが、食べ物だけには若い時から執着があった。生き物は皆、食べて種を次代に繋いでいくことだと思っていたからだ。
仕事に追われ、そんな若い頃の夢を忘れてしまっていたが、三十七歳の時、そうだ自分には夢があったのだと思い出さされた。きっかけは友人に誘われて行った講演会だった。講演者は環境問題の研究家で、日本のゴミ焼却施設の多さや原子力発電所の多さ、二酸化炭素による地球の温暖化、特定フロンガスによるオゾン層の破壊、それらによってもたらされる農地と作物と海洋資源の減少などを説いた。最も強烈に心に残ったのは日本の食糧自給率が三〇%だということだった。彼は、オーストラリアは二九七%、フランスは二二一%、米国は一〇九%、ドイツは一〇六%、イギリスは一〇四%、中国は九七%などと諸外国の数字を並べ、日本は世界最低レベルで、戦後の食料難時代でさえ七〇%はあったのだと言った。そうして十年後までには必ず食料危機が来、二十五年後には石油が入ってこなくなるだろうと予測し、日本は世界で最も脆弱な国であると位置付けた。
慎一郎は、今まで自分が如何に何も知らずに生きていたかということを思い知らされた。
毎日の仕事の広告出稿量や今度のボーナスの金額や、次の昇進のことばかりにしか関心のなかったことを素直に恥じ、連れていってくれた友人に心から礼を言った。
講演者の言葉が長い間、心の奥に引っかかっていた。家庭の中を見回すと、確かに子供の頃にはなかった電気製品が当たり前のような顔でそこにある。子供の頃にはクーラーなどなかった。電気ポットも、ファンヒーターも、電子レンジも、全自動洗濯機も、ボタン一つでお湯の張れる風呂も、シャワートイレもなかった。風呂は薪で沸かしていたし、便所は汲み取りだった。ファクシミリもパソコンも携帯電話も、ビデオデッキもCDプレーヤーも、今度妻が欲しいと言っているIH調理器や食器洗浄機もなかった。それが各家庭に普及している。二酸化炭素で地球が覆われるのも当然だと感じた。
講演者は、こんな便利快適を追求する生活を戒めるべきだと提言していた。子供たちに残すべきは緑豊かな地球ではないのかと。猛スピードでハイウエイを疾走する車に我々は乗っているのだと彼は例を示した。その先には我々の子や孫が、何も知らずに遊んでいる。
今ブレーキを踏まないと自分たちの子孫を跳ね飛ばしてしまうことが判っているのに、それでもあなたたちはブレーキを踏まないのですか。自分たちさえ快適なドライブをしていられればいいのですか。今、あなたが、あなたが、あなたが本気でブレーキを踏まないと、あなたの子や孫を悲惨な目に遭わせることになる。人が踏まないとあなたも踏まないのですか、人が踏んでくれるから、自分は踏まなくて良いと考えているのですか、と彼は言ったのだった。
二十歳の頃の夢を、三十七の時にこんな形で思い出さされた。自分にはやりたいことと、やらなければならないことがあると、慎一郎は思いついた。そうしてそれを実行に移す時を、四十歳だと腹に決めた。四十までには三年ある。その三年間をどう過ごせば良いのかと、真剣に考えた。サラリーマンをしながらどうすれば農業ができるのかを模索し、準備を進めてきた。
月二回の日曜日に開かれる県主催の農業塾に一年間通い、講義と栽培の実際を経験した。
就農セミナーに参加し、相談もした。そこで紹介された農家へ研修にも行った。
一番の問題は畑だった。道具や機械は金を工面すれば何とかなるが、畑はそうはいかないのだ。町内を注意しながら車で走ってみると、使われていない畑や田圃が目に付く。季節になっても草が茂っているから、すぐに判る。使っていないなら貸してくれるだろうと思い何人かの地主に聞いてみたが、素人など相手にもしてくれないのだった。
こういうときには行政に頼るしかないと役場を訪ね、相談した。町には農業委員会という組織があり、そこで農家の認定を行う。その事務局に行った。認定を受けるには最低五反の畑が必要だと言われた。
「農業改良普及センターに新規就農相談窓口があるから、詳しいことはそこで聞いてみればええよ」
と言われ、その足で訪ねた。相談窓口の女性に事情を話すと、
「でもね、五反ないと新規で就農できませんよ。農地法で決められているんです」
その五反がないから相談に来たのだと言っても、「五反の畑があって、何を作りたいからと具体的なものがあれば相談にも乗れるけど、何もないんじゃあ相談のしようもないですよね」
化粧っ気のない、四十がらみの女だ。今から出かけるんですと呟きながら、机上の書類を忙しそうに整理している。本当に新規就農の相談窓口なのかと思うほど愛想が悪い。
「じゃあ、その五反の畑はどうやって手に入れるんですか」
え、っと手を止めて慎一郎を見た。「それはご自分で探してもらわないと」
「どうやって探すんですか」
「そんなこと私に訊かれてもねえ。なに作るんですか」
「アスパラです」
慎一郎はムッとした声で言った。
「アスパラねえ。アスパラ一本じゃあ難しいですよ。他には」
「まだ考えてませんが、他に考えれば土地の世話してくれるんですか」
「そういうことではありませんが」
それならそんなこと訊くなよ、と慎一郎は熱くなりかけた腹を押さえた。
「とにかく五反準備して下さい。あっ、それからこれ書いといて下さいね」
手渡されたのは「新規就農希望者調査票」で、住所や名前の他に、何処で何をどの程度の規模で作りたいのかや、準備できる資金の金額などを書き込むようになっていた。
「そこでどうぞ」
椅子を勧められ、
「書き終わったらそこに置いといてください」
言い残して担当の女性は出かけていった。
こんな所に頼ろうとした自分が馬鹿だったと、慎一郎は悔いた。そうして西木を思い出し、改めて訪ねてみる気になったのだった。
西木にそんな事情を話した。新たに農業をする者は五反の畑がないと始められないのかと、現役の農家でさえ知らないことであった。
「五反なんかない奴は、いっぱいいるで。下の婆さんのとこなんざ二反もなかろう。昔は二町ほどもあったが、親父が死に、娘が結婚するちゅうてどんどん売っていったが」
「昔からの農家はいいんです。新たに始めるには最低五反が必要だと言うわけなんで」
ふうん、と西木は鼻白んだ。
「なんや知らんけど、ややこしいんやのう」
丘陵地帯の大根畑に腰を降ろしていると、涼やかな風が吹いてくる。
「話は判った。ハウスは町の補助事業で建てたもんやから、わしが勝手に決めるわけにはいかん。とにかく農業振興課の課長に話しといてやろう」
西木はそう言うと、膝を叩いて立ち上がった。
