2005年07月03日

爽やぎの雨 その4


  爽やぎの雨 その4
片岡 永
 

 加奈子と出会ったのは二十年前である。私立大学の学生食堂でのことだった。加奈子はそこの学生だったが、慎一郎は単なる食堂のアルバイトだった。その日カレーを盛りつける担当だった慎一郎が、忙しさについステンレスの皿を手荒くカウンターに置いた。ちょうど並んでいた加奈子の洋服に、置いた皿のカレーが飛んだ。悲鳴を上げて飛び退った拍子に、持っていたトレーからサラダの皿やスプーンが落ちた。その物音で慎一郎が顔を上げると、
「なんて置き方するのよ」
 と加奈子が慎一郎に言った。
「どうしたん」
 間の抜けた返答に、一緒にいた友達が怒りだした。
「あんたが乱暴にお皿を置くから、カレーが飛び散ったじゃないの。見てごらんなさいよ」
 加奈子の白いワンピースを指した。胸の辺りにカレーの黄色い汁が飛んでいた。
「どうしてくれるのよ、この染み」
 学生の列がざわめき始め、奧から店長が出てきた。店長は濡れ布巾で加奈子のワンピースを拭いながら丁寧に謝り、後でクリーニング代を届けるからと学年や名前を書き留めて
いた。
 慎一郎は、その月の給料からクリーニング代を差し引くからなと言われ、その日に首になった。今日お金を届けてこいと封筒を渡され、もう明日から来なくていいからなと念を
押された。
 夕方、渡された封筒を持ち、教室に加奈子を訪ねた。加奈子はお昼の友達と帰り支度をしているところで、今日は申し訳ありませんでしたと詫びる慎一郎の顔をじっと見ていた。
受け取った封筒をぴっと破り、
「なにこれ?」
 と言った。
「クリーニング代です」
 加奈子は千円札三枚を振りながら、
「あんたねえ、この洋服いくらすると思ってんのよ。こんな染みの付いたもの、もう着られるはずないじゃないの。あんたのその白衣じゃあるまいし」
 慎一郎の白衣には、油やカレーやケチャップの染みが方々に付いていた。
 黙って頭を下げている慎一郎に、
「まあいいわ。このお金あんたに返すから、それで今晩の夕食でも奢ってちょうだい。それでいいから」
 慎一郎は上目遣いに加奈子を見た。「どうなの、嫌なの?」
 慎一郎は首を振ったが、
「これでは足りないんじゃあないですか」
「足りなきゃあ、あんた出しなさいよ」
 慎一郎は躊躇した。財布には二千円もないことを知っていた。
「どうするのよ。夕食奢るの、それとも新しい服買ってくれるの。その十倍ほどするわよ」
 どうにでもなれと、慎一郎は頷いた。足らない分は皿洗いでもしようと思った。
 加奈子が連れていったレストランはフランス料理店で、常連らしくマスターと親しげに喋っていた。友達二人も付いてきていて、最初から足らないことは判りきっていた。どうせなら食ったこともない旨い物を食ってやろうと腹を括った。
 加奈子は慎一郎に、何故学食で働くようになったのかとか、何処でどんな生活をしているのかとか、今日の顛末はどうだったのかとか、出身はどこかとか、趣味はなんだとか、血液型はなどと矢継ぎ早に訊ねた。その度に友達と盛り上がっていた。三人の中で、加奈子が一番の親分肌であったし、見た目も一番綺麗だった。いかにもお嬢様という感じで、フォークとナイフの使い方も堂に入っていた。
 食事が終わり、加奈子は伝票を慎一郎に回しながら、ご馳走様と言った。一万八千円だった。慎一郎はレジでマスターを呼んでくれと言った。いつもありがとうございます、と出てきたマスターに四千七百五十円を出し、今日はこれだけしかないから足らない分は店で仕事をさせて欲しいと言った。はあ、と聞き返したマスターに同じことを繰り返した。
 後ろで加奈子が笑った。
「いい度胸してるじゃないのあんた。マスター、彼を雇ってあげてよ。丁度今日、学食を首になって、明日から仕事がないの」
「雇うのは構いませんが」
「ほんと、じゃあお願いね」
 そう言いながら加奈子は自分の財布から二万円を出してレジに置いた。先に出していた金はそのまま慎一郎に返してくれた。
 慎一郎は本当にその店で雇ってもらい、加奈子が来る度に挨拶を欠かさなかった。三ヶ
月ほどして加奈子は、
「四畳半一間に流し付きの部屋ってどんなの」 と慎一郎のアパートにやって来たのだった。
 西木にはその後三回会った。ハウスの答を聞くためであったが、余りしつこくせっつくと嫌気がさすだろうから、いつも遠慮がちに訊ねた。西木は忙しいのに時間を割いて担当課長と折衝してくれたらしく、現状報告はしてくれたが、やはりハウスの借用は難しそうであった。町では新たに募集を掛け、借用農家を探す方向に向いているという。この段階で自分への可能性はなくなったと慎一郎は確信できた。二反の内のここにアスパラを植え、あそこにはテーブルや椅子を置いて将来はアスパラの観光農園をしようなどと夢を膨らませていただけに、白紙に戻ったショックは大きかった。
 西木から電話があったのは慎一郎がハウスの借用を諦め、次の手をどうしようかとようやく考え始めた頃だった。
「下の露地やけどな、斎藤君が貸してもよさそうなこと言うとるぞ。一度会ってみるか」
 慎一郎は、夕方行きますからと声を上擦らせた。嬉しさが込み上げてきた。
 長い夏の陽の落ちかけるころ、慎一郎は畑の前で西木と待ち合わせた。そこに地主の斎藤がやって来た。痩けた頬に帽子を被り、よれよれの作業着を着、鼻の下と顎に薄い髭を生やしている。西木より十ほど若いだろうか。
 斎藤は弱々しげな声で畑の広さや地質や、かつて栽培していた作物のことを説明した。
二年間手を入れていないと言う畑は、セイタカアワダチソウが伸び放題に伸びている。その中にパイプハウスの骨組みが見えている。草はハウスの天井部分より高く伸びているから三メートルにはなっているのだろう。
 払っても払っても蚊がまとわりついてくる。西木は蚊の多さに閉口しながら、しきりと煙草を吹かせている。
 ハウスの長さは四〇メートルあると斎藤が喋っている。中ではトマトを作っていた。露地では茄子を作っていた。
「あそこに支柱が残っているでしょう」
 ようく見るとセイタカアワダチソウの間に、茄子栽培用の外に湾曲した支柱が見える。
西木は盛んに首筋や腕の蚊を払っている。
「それで貸せるんかえ貸せないんかえ、どうなんや」
 いらだつ口調で西木が言った。斎藤は
「年二万円くらいでどうやろう」
 ぼそりと言った。
「貸して頂ける、ということでしょうか」
 慎一郎の言葉に斎藤は頷いた。
「ありがとうございます」
 慎一郎は深く頭を下げた。用意してきていた缶ビール一ケースを斎藤に、西木にはウイ
スキー一本を渡して何度も礼を言った。

By myfont @ 07:30 PM | 爽やぎの雨 | コメント (0) | トラックバック (0)

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